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役人たたき

『日曜討論』 2001218

 なんというタイトルであったか忘れたが、若い人たちと評論家、いわゆる知識人と呼ばれるおとなたちとの討論をテレビで見た。「将来の希望は」との問いに青年のひとりが「大蔵省に入って国の役に立ちたい」と答えたのに対しておとなたちが「いまごろ、役人になりたいなんて馬鹿じゃないの」といったニュアンスでからかうのを見て義兄のことを思い出した。

 姉の夫である尚明は琉球王朝最後の王であった尚泰候の第4王子、光の長男だが東京生まれの東京育ち。戦前、帝国大学(現東大)の建築科を出て大蔵省を経て建設省に勤務していた。ふたり兄弟の弟を早くになくした義兄は私たちを可愛がってくれ、音楽会に連れていってくれたり、スキー、スケートを教えてくれたりした。

 戦後、転勤先の京都から帰ってきてJRの巣鴨駅に降り立ったとき、一面焼け野が原の東京を見て、「これからはなんといっても住宅だ」といい、住宅復興に力を注いだ。昭和30年代半ば、公団住宅の建設が始まったときは志願して住宅公団に出向し、情熱を燃やしていた。現在は当たり前のように使われている「ダイニングキッチン」という言葉は、この公団の設計段階で生まれたと聞く。

 姉の尚道子は料理が好きであったし、上手でもあった。公務員の安い給料の中でやりくりしながらの経済料理が、東京都が行った家庭料理コンクールで1位になったこともある。これが契機で家庭料理の研究家としてNHKのテレビ番組『きょうの料理』のレギュラーで20年あまり出演していた。

 その姉が真冬、北向きの寒い台所で仕事をしているのを見て、義兄は台所を住まいの中のいちばんいい場所に持ってくることを考えた。日当たりがよくて明るく、客も通せるような部屋にして、一家団欒の場所にしたいと仲間たちと苦労してつくり上げたのが「ダイニング」と「キッチン」を結びつけた和製英語の「ダイニングキッチン」である。その歴史は昨年NHKのテレビ番組『プロジェクトX』で放映された。タイトルは「妻たちに捧げるダイニングキッチン」で、多くの人に感銘を与え、再放送もされた。

 新しい住居のスタイルは、家族の暮らし方にも変化をもたらしたが、「狭い」との批判も多かった。義兄に聞くと「そりゃあ、僕だって幕の内弁当を配りたかったよ。しかし、当時は1軒の家に何所帯も暮らしていたり、掘っ建て小屋に住んで雨露を凌ぐ状態だったからぜいたくはいえなかった。おなかをすかせた人たちに、とりあえずおにぎりを配ったようなもの」と答えた。

 義兄たちも文京区にあった家の焼け跡に小さな家を建てて住んでいた。160坪ほどの敷地に終の住処に建て替えたのは、住宅公団副総裁その他の公職を退いてからで、私たち姉妹の中でも一番最後であった。

 役人は公僕であるといい、公私混同を許さず「李下の冠を正さず」の信念を貫いた義兄が建設省住宅局長を最後に役所をやめた際、周囲の人たちのあいさつは「ご無事ご退官おめでとうございます」だったと姉から聞いた。役人生活を全うすることがいかに大変であるかを、このあいさつから私は知った。

 近ごろ新聞をにぎわすニュースを見聞きする度に、義兄のすがすがしい生き方を誇りに思うと同時に、生前、義兄が「役人たたきばかりしていると優秀な人材が役人にならなくなるよ」といっていた言葉を思い出した。せっかく若い人たちが国をよくしたいと理想を語るとき、無責任なおとなたちが茶化してしまうのはいかがなものであろうか。

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