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長寿村の「ここちよい暮らし」 (2)

 岸 朝子  

自立しながら助け合う

さらに、長寿の秘訣として、照屋村長はお年寄りが自立していること、よく働くことをあげています。

「100歳過ぎたオバアでも、生きている限りは現役だと思っています。“私は扶養家族だ”なんて考えていませんね。70歳、80歳でも子どもに飯を食わしてもらっていると思っていないから、威張っている。逆に畑で作ったニラやフーチバー、サヤインゲンなどの野菜を箱詰めにして、那覇に住んでいる子どもたちに送ったりしてますよ。都市部に家を建てて移り住んでいる子どもたちが、ひとり暮らしになったおじいさんやおばあさんを呼び寄せても、みんな1週間もしたら村に逃げ帰ってくるんです」とのこと。

「たとえ屋根が傾きかけた家でも、長く暮らしていた場所がいい。隣り近所とのコミュニケーションがあるからね。年寄りは朝が早いから、6時には、もう起きるでしょ。起きたらすぐ戸を開ける。これが“きょうも元気だよ”というサインなんです。ひとり暮らしのオバアの家の戸が閉まっていると、風邪でもひいたんじゃないかと近所の人が見にいく。ときには郵便配達の人が覗くこともありますね。風邪ぎみだといえば、すぐ診療所に強制的に連れていくんですよ。戸を開けるかわりに旗を玄関に立てる人もいると聞いています。こういうのをユイマール精神というんでしょうね」。

ユイマールとは沖縄の方言で、相互扶助の習慣。また兄弟のように分け隔てなく付き合う「イチャリバーチョーデー」(1度会えば兄弟)の意識も高いのです。このような県民性と、生涯現役という姿勢が、長寿を支えているといえます。

1995年には、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業のひとつとして、当時の県知事大田昌秀さんが「沖縄県長寿の検証と世界長寿地域宣言」を行ないました。沖縄県が世界で最も長寿の地域となったその背景として、90歳以上の県内高齢者を対象とした調査結果をもとに、次の要因をあげました。(1)適度な栄養、(2)バランスのとれた食習慣、(3)家族・友人とのコミュニケーションが図られており、生き甲斐を持ち、安心して暮らすことができる環境、(4)温暖な気候風土、(5)人情味豊かな県民性などが報告されています。宣言は「我々の祖先が築いてきた独自の文化を大事にしつつ、健康の大切さ、平和の尊さを訴え、未来に向けて全人類の幸せの道しるべとなるよう、沖縄県が世界長寿地域であることをここに宣言する」という言葉でしめくくられています。

その中でもことに長寿地域とあって、大宜味村には本土はもちろん世界各国から視察団が訪れ、村長はその応対に大忙しです。「フランスのテレビ局も来たし、イスラエルのテレビ局も来ました。フランスのテレビ局の人はいろいろ取材して、“大宜味村は村そのものが老人ホームですね”と感心していたから“そうだよ”と返事しました。1軒1軒が個室になっている老人ホーム。自立しているけれど助け合っている。安心していい気持ちで毎日過ごせる。沖縄の方言で“ククル(心)ヤシヤシ(安らか)”、ここちよい暮らしですね。唯一の心配は、子どもや孫が不良で悪いことをしたらチャースガヤ(どうしようかな)ということぐらい。だから子どもや孫たちは、おじいちゃん、おばあちゃんを心配させないために、きちんとやっていこうと心掛ける。これが一番の親孝行でイコール社会がよくなっていく現象につながるんですよ」。大宜味村のお年寄りは元気。外国の視察団が感心するのは、寝たきりの老人がいないことだとも聞きました。

さらに村長さんは続けます。「太陽が昇れば起きて戸を開けて仕事をする。太陽が沈みかければ三線(サンシン)をひいて歌って踊って眠りにつく。泡盛を飲んでね。自分が作った薬用泡盛で晩酌するオバアもいますよ。血液の循環をよくするといってね。量はそれほど飲まないけれど…。泡盛は絶対に二日酔いしないからね」。

大宜味村のお年寄りはチャレンジ精神も旺盛だと聞きました。老人会で沖縄伝統の琉歌を募集したら、ひとりで10首もつくってくる人もいて、毎年100首ほど集まるため、『琉歌万葉集』を編む話もあるということです。琉歌は、8・8・8・6の歌詞で、昔から三線にのせて歌われてきました。オバアが「わたしこんな歌つくったから、この曲にのっけて歌って」といえば、みんなですぐ三線をひいて歌います。沖縄では三線は生活の一部、どこの家庭にも床の間に置いてあります。悲しい曲、賑やかな曲にのせて自分の歌が流れていくのは、オバアにとってなによりの喜びであり、励みでもあるのでしょう。ちなみに、三線は蛇皮線(じゃびせん)とも呼ばれ、中国から沖縄に伝わり、これが本土に渡って三味線(しゃみせん)になったといわれています。

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